Infinite Waters(Suiten Mugen)


作家の言葉

「水天Mugen」

 私の住まいは海から10キロの内陸にあるが、それでも海を〃聴く〃 ことが
出来る。空をよぎる雲が、私の思考を海岸に運んでいく。私は光に目を凝らし
荷物を積みっ放しのバンに飛び乗って、大好きな場所の一つへ向かう。
 海岸で波の流れを見守っていると、リズミカルな動きがイメージを刺激する
私は一体、何回ここに来ただろう? すっかりおなじみの場所だ。だがそれに
もかかわらず、ここはなんと新しくて新鮮なのだろう。その瞬間の感情をつか
む方法は、季節の光と風の呼吸による。海をピンホール写真にする〃準備〃を
していると、私の頭の中を考えが行く。
「考えが行く」と言ったが、それは半分無意識なのだ。それは内なる風景の記
憶と結合した、感情あるいは直感である。この体験を他人と分かち合いたいと
いう願望は、私にカメラを取り出させる。
 他の装置ではなくなぜピンホールなのか? 私は実際にはこの世界を、現代
のカメラがするように秒単位の断片としては見ていない。心と精神と、すべて
の感覚を駆使し、15秒間、1分間、1時間という長さである場面に入り込む
ことは、私にとって人生それ自体を熟視することなのである。見渡す限りの広
大さで海を眺めると、それは私の記憶に記録されるのだ。
 田んぼの畔道で、林の中の小川に沿う森の中で、光の飛び交う滝の前で、雲
一つない空を見上げていると、これらのすべてが同じ一つの感応をもたらす。
 道具としてのピンホールカメラは、自然の中で、これら親密な時間の中で私
が感じるものを表現する助けになってくれる。目はレンズの口径である。イメ
ージは、私の感光する内面の存在に焼き付けられる。〃悟り〃という覚醒は瞬
時に起こるのだろうが、それは時の流れに乗って生じるものの、極致なので
ある。
 ピンホールカメラは、私の進行中の旅の目撃者となっている。カメラと私は
共に、その場面を観察し、保存し、そして持ち帰るのである。
                       
エドワード・レビンソン   2001

 

Edward Levinson (2001)